何故か奇妙に心に残る言葉というのには注意することである

夫ともうまくいかなくて離婚した。
そしていろいろ医者に診てもらうのだが、肉体的には
これといって悪いところはない。

そこで神経科の医者のところに彼女は行った。
彼女は母親とはうまくいっている。母親は素晴らしい人だと信じている。

その母親は時々彼女の子供をたたく。
もちろん悪いことをした時である。

彼女はそれに抗議できない。
子供はおばあちゃんを好きだと主張する。

医者が、あなたは母親の子供の扱いに怒っているのではないですか、と聞く。
彼女は「とんでもない」と答える。

母はずっと私達を助けてきてくれているからと答える。
私は怒りなど決してないという。

ところがである。
そのような会話があってしばらくして母親が長期の旅行に出かける。

すると彼女はとたんにそれまで感じていた頭痛が少なくなる。
彼女にとって、「お母さんに怒っているのではないですか」という
質問はとんでもない質問であったに違いない。

それだけにハッキリと繰り返し、そんなことはないと答えた。
しかしそれにもかかわらずその質問はおそらく彼女の心にひっかかり
離れなかったのではないだろうか。

そして心のどこかでは自分の確信を疑ったのかも知れない。
それが彼女の出発点だったのである。

そんな馬鹿なと、一笑にふすほどの間違ったことなのに、
何故か奇妙に心に残る言葉というのには注意することである。

頭痛に苦しむその女性にとって、母親に怒っているというのは、
どう考えてもあり得ないことであったのであろう。

しかし実際には彼女の頭痛はその怒りを意識することでなおっていく。
これをとりあつかった医者は、彼女はあまりにも怒りを憎んでいたので
自分の怒りを意識することすら抑えたと言っている。

彼女は怒りを意識しなかった。
親に怒りを感じることは悪いことだからである。

しかし実際には親に怒っていた。
そこで彼女は頭痛に苦しんだのである。

もちろん頭痛に苦しんでいる人のすべてが怒りを抑圧しているわけではない。
彼女のように医師に診てもらっても肉体的にどこも悪くないのに、
頭痛に苦しんでいるというような場合に、このようなケースを
考えてみることも必要なのではないか、ということである。

医学的には原因はないのに肉体的に苦しんでいる人は、
自分の実際の感情と自分は接していないのではないかと
一応考えてみる必要があろう。